DO YOU SPEAK ATLAS?|第5話

一週間後、彼は四度目のマンツーマンレッスンを受けた。午後六時から七
時までの二時間にして、グレッグと存分に話す機会ができた。

「ユキオは将来何になりたいの?」

彼がたどたどしい英語で聞くと、グレッグは、

「僕は大学時代に経済・経営を専攻していて、大学院に入って博士号を取るために日本で学費を稼いでいるんだ」と言った。

ここで由起夫君の顔は輝いた。経営といえば、彼も学生時代に専攻していた学問なのである。彼は自分の専門を決めるときに、これといってやりたい専門分野があるわけではなかった。ただ、英文科ともなると人気があるため、倍率が高く、希望を出しても、希望を出しても漏れる生徒も多いらしい。その点、経済・経営であればあまり人気もなく、易々と入れるという噂を彼は耳にした。彼は自信を持って経営科の門をくぐった。しかし、彼を持ち受けていたものは、それほど簡単なものでもなかったのである。彼はない頭をこねくり回し、大変な苦労をして大学を卒業した。それでも数年間の経営修業を経て、少しはビジネスに親しみを覚えるようになったらしい。

「へえ、そりゃ奇遇だね、僕も経営を勉強してたよ」と由起夫君。

「ほう、誰の本を読んだの?」

ここから会話が弾んで然るべきなのだが、何分、由起夫君は日本語で哲学を職っているにすぎない。結果的に話題は変わり、スポーツの話が多くなったのを、彼がじっと聞いているという体裁になった。

「セルフエスティームとは何だ?」

彼は手持ちの辞書を聞く。ふむふむ、どうやら「自尊心」もことらしい。さてと思い彼は再び聞き耳を立てるが、話題は他の事柄に移ってきている。わけのわからない単語が飛び交い、まるで地表から上空何千メートルの雲の動きを眺めるような気持ちである。それでも固有名詞だけは聞きとることが彼にはできた。日本人の名前であれば、誰でも聞き取れる。彼の会話能力はやはり赤ちゃんである。

「さて、60分を過ぎたし、今日はこれでレッスンを終わりにしよう」

グレッグは微笑んでレッスンブースを後にした。由起夫君はグレッグがノートに書かれた単語をいそいそと辞書を引いている。

「セルフィッシュ?…わがままということか、セルフサービス?…。一体何を話していたのだ?」

彼はグレッグと教室のロビーで対等に話していた生徒をまじまじと眺めていた。彼の名前は川崎さんと言った。

「今グレッグは何を話してたんですかね」

「ああ、彼は沖縄の米軍基地移設問題のことを話していたんだよ」

そういえば「オバマ」や「ハトヤマ」という名を口にしていたことは彼にも聞き取れた。グレッグは政権交代した民主党の政治的分析をしていたらしいのだが、この話題は今の由起夫君には少々荷が重すぎたようである。しかし、この問題は外国人の間でも大きな関心を呼んでいた。

その後、何人かの講師が来ては、様々なことを話していたが、彼はそのほとんどを理解することができなかった。彼にできたことは、「どうやったら英語が話せるようになれるんでか」とか。

「良い学習方法は何ですか」と言った当たり前の質問ばかりである。

それでも彼は、最後までロービーにいたことになる。まるで理解できないものの中に長時間身を浸すのは、なかなか苦痛を伴うものである。どうかこのけなげな由起夫君に、暖かい拍手をお願いします。


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