そもそも「サラリーマン社長」という言葉自体が語義的に矛盾しています。なぜなら、「創業者社長」がいない会社は精神的に社会に存在していないからです。そうした創業者から見れば、たとえ役職が社長であろうと、使用人は使用人に過ぎません。
それでは創業者がなぜ創業者なのかといえば、「自分自身の人生の意味」と強く感じ、それを信じて真っすぐ進むという意味での宿命的な感覚があるからです。これの有無が創業者とサラリーマンたちを明確に分けています。サラリーマン社長はそもそも社長ではなく、使用人なのです。
「サラリーマン社長」とは大課長や大店長に過ぎなく、「創業者社長」は365日24時間会社のことを考えています。サラリーマン社長は便宜的に私生活とビジネスを分けて考えています。つまり当事者意識が弱く、反対に、創業者社長は資本家であり、当事者意識が高くなるというわけです。
「サラリーマン社長」とは、響きだけは新しく聞こえますが、従来の経営者概念の延長線上にあるものなのだと思います。例えば、東芝と日本郵政を巨額M&Aの失敗で傾かせた西室泰三氏は周囲から畏怖されるほどの独裁的なコーポレートガバナンスが裏目に出て現在の惨状を招いてしまいました。
経営に対して直接痛みが伴わないサラリーマン社長ほど無駄なものはありません。そして、退任時に「お蔭様で任期中は何事もなく無事過ごせました。」と言うのは、何事もないのを目標にしていたということの証明なのです。
大企業に勤めた取締役以上がサラリーマンから経営者にならず、上がりポジションになっているのは、退任後の身分が暗黙の了解で保証さるているからですが、社長経験者は在任中の成果に関わらず相談役などで70、80歳になっても部屋と車が約束されているのはどう考えてもおかしいのです。
これから東芝や三菱重工などを筆頭にサラリーマン社長しかいない死んだも同然の大企業が続々と倒れる中、真に宿命を感じる創業者社長たちが創り続け、走り続ける場としての中小企業が主体の世の中が日本でもいよいよ到来することになりそうです。
一方、「技術者」についても同様のことが言えます。
パナソニック工場に「地域限定社員」 人手の確保図る
日本の製造業は2009年から始まる強烈な円高の中で、グローバル化を標榜し、国内生産拠点を潰していきました。実は日本のそうした製造拠点を支えているのは、「能力は高いけれど、英語が苦手」という理由だけで専門学校を選ぶ人たちなのです。
そうした人たちは当然、グローバル展開にはついていくことができず、2009年の段階で切り落とされました。例えば、半導体技術では屈指の腕を持つ人たちが大勢失職しました。そこで働いていた人々はまた別の工場に移ったか、退職を余儀無くされた人もいるかもしれません。
製造している製品が何十年も存在するわけもなく、定年までそこに工場が存在する保証はないわけです。そういったことは、労働者側がある程度は理解しているはずですが、多くは警備員や単純な事務職などへ転職されたことが分かっています。
そしてまた、今度は国内回帰の嵐が起きていますが、実際には円高の今後のトレンドでもあります。地域限定社員という形で賃金規定上も差別化を行うという趣旨が見え見えではありますが、またしても今後の円高展開で貴重な技術人財が失われることもすでに明らかになっています。日本の大企業は、この7年ほどに貯めた大量の内部留保を使ってなぜ行おうとしないのでしょうか。
そして、こうした時代が意味するのは、社会変動のリスクをますます個人が負う苦しい時代の到来をも意味しています。手放しで喜んでいる場合でもないかと思います。
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