最近は、日本国内でも様々な現象が見られていることで、海外の西洋化されたリゾートに行くよりも、国内の神社や仏閣に参拝することの方が訪れる方が直観的に意味のある行為だと感じられるようになりつつあります。
特に、西洋化された都市よりも明らかに鄙びた感がある山奥の神社や仏閣には、滝が流れ、近くに透き通った清浄な湧き水があり、自然が創り出した光景が広がっています。時にはその余りにも圧倒的な雰囲気に息をのむほど感動することもあります。
年末年始が始まる前までは参拝客が少ないこともあり、あまりにも静寂な中に吸い込まれていく自分を感じる中で、不思議と自分自身に気が充満していくのを感じることができます。帰り道の参道でも不思議と足取りは軽く、心が洗われた気持ちになりました。
さて、神社や仏閣に来てみると、日本の古代を生きた人々は難局に直面した時、現代人とは違い、一体何をすれば良いのかよくわかっていたのではないでしょうか。
つまり、現在のように太陽黒点数がゼロに近くなり、太陽フレアが出てこなくなれば古代社会では簡単に死が訪れることを意味していたというわけです。例えば、古事記や日本書記では、怒ったアマテラスが天岩戸に隠れたので、八百万の神たちが集まった、と記述があります。人々は一向に姿を現さない太陽(天照大神)を前に恐れおののき、苦しんだことで皆が集まったという知恵をも導き出したのかもしれません。
その知恵とは、悩むと脳内回路が機能しづらくなってくるので、そのためのホルモンが分泌されなくなり、必要な神経回路も機能しなくなってきます。その結果、ますます悩みが深くなり、バランスを崩すことで体調も悪くなってくるわけです。
問題はあるレベルを越えると人体というのは、こうした状況から元の健康な状況へと回復しようとするのではなく、むしろ積極的に自己解体へと進むようにあらかじめプログラミングされているということです。簡単に言うと、そのまま放っておくと人体の内部でエントロピーが増大し、メンタルヘルスを悪化させ、次に肉体は崩壊し、人は死に至るというわけです。
こうしたプロセスに多くの人が陥ってしまうという事態にならないようにするには方法があります。そもそも人は自分の果たすべき役割や使命を自覚し、それを貫こうとすればするほど、そうではない無数に人と人の間を漂っている「人間」の群れと衝突するものです。
これはどこにいても「人間」がいることで「人」の悩みが尽きることはまずありません。この「人間」を変えることはもう不可能です。このまま放っておくと「人」であっても脳内回路は徐々に鈍っていき、ついには自己解体プロセスが始まってしまうことになります。
そこでまずはこうした自覚した「人」につきものの悩みが生じた時、人体が置かれる状態とは真反対の環境にあえて自らを置くことによって体内と環境との間で相互浸透を図り、結果として人体を元に戻す方法を採るべきです。
具体的に言うと、電子とその裏側にあるイオンを用いた方法ですが、普通、「人」がポジティブな気分で活発に動いている時、プラスの電子とマイナスのイオンを放出しています。しかし、疲れやネガティブな感情になると逆になるわけです。
そこでこの原理を用いることにより、自然が豊かな環境の中でプラスの電子とマイナスのイオンを大量に放出するところに自分を長時間置くことで、人体の中にある真逆の要素との交換を促すというわけです。
古代に生きた人々はその原理のことを知っていましたが、そうした場に自分たちの子孫たちが立ち返ることが出来るよう書物として聖書やコーラン、古事記、日本書紀などを残したのではないかと私は思っています。
そうすれば子孫たちはどんな状況にあっても書物を思い出し、癒しの場所を訪れることになるからです。そしてその結果、子孫たちはが持つであろう悩みの重圧からは解放され、繁栄し続けることになるわけです。
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