独りの時間を楽しめない人、つまり孤独に耐えられない人間は、暇があるとろくでもないことを考えるようになる傾向があります。
実際、犯罪を犯して逮捕される人の共通点はほぼ無職であるように、彼らは何もすることがなく孤独な状態になると自分が何者なのか、何をすればよいのか分からなくなります。彼らは、自分の思い通りにならない人生、今の不満な状態に対し、それを改善・解決するために何をすべきかに考えが及ぶことがありません。なぜなら、そのような内面を考えた経験がないからです。
だから自分が何をするかではなく、世間はなぜ自分に冷たいのか、なぜ自分の思い通りにならないのかと、不平不満ばかりが溜まります。それはやがて社会に対する敵意や憎しみとなり、最終的には放火や無差別殺人によって主張しようとすることもあります。
では、なぜそういう犯罪という形でしかアピールできないかというと、2つの理由が考えられます。一つ目は、自分が注目を集めたい、自分という存在を見てほしいという欲求だけが強くなりすぎて、善悪の区別がつかなくなることです。
良い行いというのは、意外にも周囲に対するインパクトが少ないものです。ゴミ掃除をしても注目を集めることはまずありません。しかし、犯罪は一瞬にして皆を振り向かせることができ、自分の思いを巨大化させて知らしめることができます。
二つ目は、仕返しの感情です。彼らは思考のレベルが浅いので、ざっくりと世間や社会という曖昧なものに敵意を抱きやすい傾向があります。具体的に誰に何を求めているのか、考えも及びません。だから対象は誰でもいいことになるわけです。
そして周囲に迷惑をかけ、慌てたり困っている人を見て安心する傾向があります。不幸なのは自分だけはなく、もっと不幸になった人を見てほくそ笑むのです。思考のレベルが浅いためにその行為の結果、自分がどういう事態になるか、という想像力すら失くしてしまっています。
こういう人間には、毎日疲れて寝るだけになるまで活動レベルを上げることです。実は上手くいっていないという不満を持つ人ほど、日々の活動量が足りていません。不満を感じるほど体力が有り余っているわけですから、何も考えられなくなるほど何かに必死で取り組むことです。
疲れてヘトヘトになれば、ろくでもないことを考えるエネルギーすら出てこなくなります。人間の本能として、過酷な状況下では今日を生き延びようという生存本能が強く刺激されます。どうすれば生き残れるかという思考は、どうすれば成果を出せるかという前向きなメンタルの獲得に繋がります。
自分の生存とは関係がないいたずらや仕返しなどは活動レベルを上げることで、そういう行為は無駄だと感じられるようになります。例えば、僧侶の修行は肉体を過酷な状態に追い詰めることで、悟りを開くための精神の修養に繋がっていることと同じです。
これはそんな特別なことではなく、スポーツやビジネスの世界でも過酷な練習や仕事を経験してきた人のほうが心が成熟しているというのは、どの分野でも同じなのかもしれません。
孤独になるのはイヤだからと、無理をしてでも誰かと繋がろうとする行為は、自分を隠して接することですから相手も心を開いてくれず、結果としてむしろ心の孤立を招いてしまうことになります。つまり、自分をさらけ出すことは孤立しないようにすることです。
一方、自立した人間は孤独になることがなく、孤独を楽しめることができることで孤独を感じることがないわけです。どんな人でも、自分から人間関係を避けようとしなければ疎外感を感じることはありません。
学校でもパーティーでも、ポツンと独りで立っている人に声をかけるような人もいます。あるいは、そもそも他者に興味関心が薄く、誰かを疎外するとかいう発想がない人もいるでしょう。だから孤独を恐れて自分を抑えつけないことです。
しかし、孤独に悩む人の中には自ら人間関係から距離を置く人が少なくありません。男性に多いですが、自分から人付き合いを避け、社会から孤立していきながら嘆くパターンです。こういう絶対的な孤独に慣れてしまうと、ますます人間関係が苦手になります。なぜなら、他者との距離感が掴めなくなるからです。
他人との関係があるからこそ、自分の位置を確認でき、他人との関係があるから自分の個性を認識できるわけです。絶対的な孤独の中では、自分を映してくれるものがないため、逆に自分がわからなくなることがあります。
孤独を恐れる必要はないですが、しかし、人を避ければ人間関係の刺激に弱くなります。人との接点を減らせば人間関係に対して虚弱体質になり、ちょっとした行き違いや摩擦で心がどうしようもなく不安になり、それがますます自分の心にバリアを張って人との距離を作ってしまうわけです。
そんな悪循環を作っているのが、若者に多いとされる引きこもりや、定年退職した高齢者男性によく見られています。
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