私は、7歳でアメリカに移住し、高校時の3年間を除いて28歳までアメリカに在住すること18年間、その後もアメリカと日本を行ったり来たりし、気づいたら日本に18年も住んでいるわけです。
あっという間に時間が過ぎ去り、その間、Atlasマンツーマン英会話を設立し、情報リテラシー教育スクールを別ブランドで旗揚げし、いよいよターニング・イヤーである2020年にはブランド統合に伴う日本初の情報リテラシー語学スクールを全国でリニューアルオープンする予定があります。
私なりに様々な学びがあったこれまでの18年間でしたが、失敗も多い中でも不思議に後悔はしていません。ところが、恐ろしいことに自分なりに満足している私のアメリカ&日本生活を批判してくる方がいます。
それは、同じく海外に住んでいた日本人です。私は、情報に対しては否定されることがないようにできるだけ信頼度の高い統計を掲載しているわけですが、統計より自分が見聞きした世界のほうが正しいと思っている方がいるということです。
なぜ他人の体験は丸ごと否定なのに、自分の体験には普遍的な信用性がある事実だなどと思い込めるのでしょうか?「自分とは異なる体験をしている方」とは思えないのでしょうか?
それは主に、2つのパターンがあるからであると私は考えています。1つ目は、外国で波乱万丈な人生を送り、それを乗り越えてきた自負があるタイプの方です。つまり、自分は外国で様々な経験をしていると思っているようです。
だからこそ、自分が知らない国や地域性について問われると急にへそを曲げたがるわけです。自分とは異なる外国文化についての解釈をどうしても認めたくないようです。なぜなら、自分の方がより知っていると思いたいからです。
2つ目は、外国生活に最後まで馴染めなかったタイプの方です。例えば、駐在員の妻として海外移住したり、国際結婚を機に移住する方に多い傾向があります。彼女たちは、外国生活に馴染めなかったため、充実感がなく、ダラダラ過ごしてしまった可能性があります。
結果として、在住年数に価値を見出さないと何もせずに過ごしてきた自分が虚しくなるというわけです。だから外国に住んでいることをプライドとして生きていることから、攻撃性がより強まっていくということです。
個人的に、海外在住年数について重きを置くタイプの方というのは、この2つのパターンのどちらかである可能性があります。事実として、長いこと外国に住んだ方というのは、それなりに経験や知識があり、短期留学や旅行などで外国を知った感じで語られると多少違和感を持つのはわかります。
私自身、海外在住年数には価値はあると思います。しかし、在住年数だけでは比較の対象にはならないわけです。なぜなら、たった1年の滞在でも10年分の経験をする方もいるからです。逆に、10年もアメリカに住んでもまともに英語を話せない方もいます。
長期滞在の留学生と現地で就職した方が感じる外国は明らかに異なります。さらに、お子さんがいたり、住んでいる国や地域によっても体験する外国はそれぞれ異なることは当然のことです。ましてや外国から帰国したばかりの方が伝える新鮮な情報というのも価値があるわけです。
だからこそ、海外在住年数だけでは比較対象にはならない、というのが私たちAtlasの持論となっています。さらに、在住年数という量は質が伴ってこそ意味のあるものだと思うわけです。様々な経験をし、学び、考える日々を送ることで、在住年数に意味が生まれてくるものです。
ただ外国に住むだけならば、パスポート一つで誰でも世界のどこにでも行けるのが現在の日本国民の特権でもあります。質の高い量、つまり充実した外国生活を長く送ることではじめて在住年数の価値が高まってくるということです。
そもそも、充実した外国生活を送っていれば、在住年数を自慢する必要などありません。統計データ(政府統計ではないもの)や具体的な出来事などを引き合いに出す必要はありますが、「長く外国に住んでいたから正しい」と主張する必要はありません。
いずれにしても、外国在住年数の長さが正しさの根拠になるというのは、あまりに主観的で思い込みが強すぎるものと思われます。10年格闘技をやっている方よりも3年しかやってない人の方が、質の高いトレーニング・メニューを提案することもあるくらいです。
私は、語学スクールの運営年数が長くなればなるほど、自分の知らないことの多さを痛感しています。そして、社員や講師の中には10年以上も所属している者もいますが、今後は新たな気づきや学びができるかどうかが心配です。
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