「企業経営者」というのは、創造力が原動力となっているため、自分の使命や役割よりも生活を優先させてしまうことで、新しいモノを創ることができなくなるものです。
ところが、経営者であっても絶対的な信念を持っている方にはヒトやモノ、カネが寄ってくるという性質があります。なぜなら、信念を持つ人物こそ人々が最も待ち望んでいるからです。ただし、その信念が正しいか間違っているかどうかは、やってみないとわかりません。
ITや工業テクノロジーでは、多額の投資や補助金を必要としていますが、サービス業の場合は社長一人の感性と手足があれば創造できるので、国や自治体からの補助金を受けることはほとんどありません。かえって国や自治体からの補助を受けてしてしまうと陳腐化が起こってしまいます。
現代では、大衆が良いサービスを評価し、その企業の商品やサービスを消費しています。
創造力の育成に力を入れている京都大学では、信念に身を捧げることを入学時に要求されるという伝統があり、「学説を信じるな」ということを教授が語っているわけです。
「学説を信じるな」とは、既成事実や慣例的に行われていること、自分自身を取り巻くフレームワークに疑いを持つことであり、それは常に知的緊張を強いる考え方であります。だからこそ、全国の大学で最も自殺率が高いのが京都大学であり、ノーベル賞受賞者が多いのはそのような理由があるものと考えられます。実は、北海道大学にも同様のことが言えそうです。
その結果、京都大学や北海道大学は、東京大学のように血縁や婚姻に基づく親族関係や、共同体、仲間などを形成せず、慶応大学や早稲田大学のように商売人集団を形成することもありません。
そもそも現在の日本では、私立大学というのはサラリーマン養成所のようなものであって、ゼロから1を創造する創業者にはならないので論外ではあります。京大生や北大生のように、入学時に革新者の孤独に耐えることが求められる大学でなければ創業者たることはできないわけです。
ところが、現代のように戦後73年を経て、政治体制がいよいよ老朽化していくと、安倍政権や日本会議、公明党などのような、既成事実に基づいた典型的な組織が権力を握るようになり、未来に対して邪魔をしていくことになるというわけです。
これが近い将来には社会運動にまで発展していくことになることは誰の目にも明らかですが、こういうことは公には言わないことにされてしまっています。しかし、「知」とはそういうものであって、優れた学者はいつの時代でも同様のことを語ってきたように思います。
一方、「科学者や技術者」というのは、国や自治体から直接雇われる性質があります。そのような状況の中、科学研究に当てられる研究費は寄付そのものになっており、贈与税がかかることなどほとんどありません。
なぜなら、民族の存続自体が競争関係にあって、新しい「知」を生み出すことによって富が生み出され、結果的に人類を先導していくことになるからです。特に、軍事兵器技術のためにできるだけ天才を集められた国が覇権を握っていることがわかるはずです。
アメリカが覇権国である理由は、強力な軍事力を保有していることからもわかりますが、アメリカ以外の諸国はそれを見習おうとしています。しかし、実際には政治家や官僚に使命感など自覚がないために徹底して天才を集めることができないわけです。
なぜなら、彼らの脳の中が未だに「アメリカ・ファースト」になっており、その枠組みで生きてきたからです。それでも明らかなことは、政治的な独立がなければ科学者や技術者は生まれないということです。
ただし、1945年からアメリカの属国で技術大国でもある日本という国は、例外中の例外であるのかもしれません。
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