この世には、「因果の報果」というものがあります。因果の報果とは、「ひどいことをした(言った)ことは、自分にそのまま返ってくる」という意味です。
そもそも否定や批判自体は悪いことではありません。しかし、否定や批判を拒否する人は、自分が進歩の拒絶をしていることに気づくべきです。
今、日本では、否定と批判が嫌われる傾向が強まりつつあります。中身のある否定や批判より、中身のない(心も伴っていない)賛意のほうがその場を円滑になるような状況にいます。しかし、私はこの考え方が好きではありません。
なぜなら、耳触りのいいことしか言えなくなり、最終的にはその方と話をすることがなくなるからです。そもそも、礼儀を伴った否定と批判自体が悪いことであるとは思えません。
ところが、表向きだけで平和を唱えようとする方はそれなりにいます。日本だけではなく、アメリカやヨーロッパにもそれなりの数がいます。私自身、表向きの平和主義はキレイ事であると考えていますが、結果的にその平和主義によって騙されていることも知っています。一体なぜ、否定や批判が悪いこととして認識されているのでしょうか?
特に、他国と比べ、日本は同調圧力が強い社会ではありますが、一体私たちは何に同調させられるのでしょうか?
欧米諸国と比べ、日本は社会契約に基づく国家になり切っていないことは明らかです。なぜなら、欧米諸国のような契約社会では、対立勢力の存在が前提にあって、相互に対等で敵対的な関係を潜在的に持つ者同士が取り結ぶものだからです。
今後、外国人労働者が大量に流入してくることが確実な日本は、社会の中にある敵対性を正面から認め、それを引き受けることによって、より進化した共同体にレベルアップすることが求められているのは明らかです。
当然、このような敵対性を認めていかないと、何の進歩にもつながらないでしょう。周りにいるのはイエスマンだけであれば、それ以上視野が広がることはないわけです。つまり、敵対性を拒絶するのは、「自分と同じ考え以外の人は認めない」と言っているようなものです。
私は、何か進歩につながるものは敵対性が必要であると考えています。天動説と地動説、ユダヤ教とキリスト教、発明王エジソンとテスラなど、反発する2軸があることで可能性が広がり、信頼性も上がるという特徴があります。
当然、以前書いた「ヘーゲルの弁証法」という考え方もありますが、そのプロセスとして進歩には、敵対性が必要ではないでしょうか?
これまで人類が長い歴史の中で、否定や批判によって対立することで進歩してきたことは明らかです。ところが、その中には否定と攻撃を混同する「人間」が必ずいたように思います。文句があれば論理的に反論すればいいわけですが、誰が見ても攻撃にしか見えないことがあります。
最近、全てを自分以外の者のせいにし、他者を叩き続けている「人間」は巡り巡って自滅しているのをよく見るようになりました。特に、攻撃性の強い人間が知らないうちにその場から消えており、自然淘汰されつつあります。
いずれにしても、否定や批判というのは、実は進歩には必要なことであるということです。ただし、攻撃は進歩するために必要ではありません。そこを混同し、否定や批判は悪いことと認識することは「イエスマン以外は要らない」ということと同じです。そして、それは個人的には決して好きになれないということです。
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