一歩下がって冷静に考えてみると、どうも私のコラムは主観的すぎる部分があるのではないか、と最近思うことが増えてきています。
当然、私自身の意見や提案を書いているわけですから主観的になることを当然なのですが、もっともらしいグラフやデータを加えると客観的なデータに基づくコラムが書けることや、事実関係がまとめられることができることも明らかになってきました。
ところが、中立な立場で書いた客観的なコラムだけが良いものになってしまうと、世の中にある全ての文章はその瞬間につまらないものになっていくはずです。しかし、現代社会では主観性よりも客観性の方がより優れているように考えられているわけです。
どちらかに偏った考え方よりも中立の方が評価が高いというのは、私自身、アメリカだけではなく、日本でも身を持って体験していることです。私自身、そういった風潮自体が現代文明が退化している証拠だと考えています。
例えば、報道記事やドキュメンタリーなどの分野では客観性が重要になっていることは間違いありませんが、主観的な記事や動画についてももっと高く評価されるべきです。つまり、中立な視点から客観的に分析することが必要な時もあるということです。
さらに、偏った情熱をぶつけるような自分勝手な文章であっても価値を感じることがたまにあります。なぜなら、その文章を通じてその人の考え方や生き方が伝わってくることがあり、繊細な感性によって綴られた文章は読んでいて心に響くこともあるからです。
私自身、人生の半分はアメリカで、そして残りは日本で生活しているわけですが、それぞれ好きなところと嫌いなところがあります。決してその国の良いところだけを見ているわけではなく、どちらと言えば悪いところを見る習慣があると思います。
だからこそ、むしろその国の良いところを書くということは客観的には価値が高いわけであって、さらに熱弁したくなることがあります。私は、単に欧米と日本の優れているところを分析し、良し悪しを天秤にかけたところで「アメリカのここが悪い」「日本のここが良い」と伝えたいわけではありません。
そもそも日本を褒める外国人というのは、日本の良いところしか見ていない視野が狭い人、ではないわけです。このように、客観的に俯瞰して書かれたコラムというのは頭がよく見えるものですが、誰かの心を揺さぶることができるのは、感情が爆発した時というのが私の経験上の定義でもあります。
要するに、客観的な要素を書いているから良いコラムというわけではなく、ある程度事実に基づいていなければ文章の信頼性そのものが低くなるというわけです。しかし、そこから先の客観性は必要なのでしょうか?
いずれにしても、私はその文章で何を伝えたいかによって客観性の重要度は変わると考えており、主観的という言葉自体がいつの間にか独り歩きしていると気づいた瞬間があったということです。
主観的・客観的というのは、一人称、三人称と同じようにそれぞれの良さがあり、それを読む側の楽しみ方や受け取り方も違っています。
主観的な文章が、「あくまで個人の価値観」という前提を理解できず、「客観的で公平な文章の方が優れている」などと決め付けるのは、「自分はリテラシーのない人間」と言っているようなものです。
結局、客観性を求めるならネットニュースや個人ブログなどではなく、歴史書や論文、そして研究書を読むべきです。
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