4月30日、明仁天皇がご退位され上皇となり、翌日の5月1日に徳仁天皇が即位されました。日本は世界に対して平和の象徴である新天皇の誕生を宣言したというわけです。
日本は、外側がイギリスやスペインのような国体でありながら、内側はアメリカン・デモクラシー、つまり代議制民主主義という二重構造になっています。簡単に言えば、「立憲君主制」ということです。
外国から見ると「立憲君主制」であって、天皇(エンペラー)は国王(キング)として扱われているように見えています。日本の政治学者たちも、日本は外側が王国(憲法)であり、内側が民主政治体制(国会)として認識しているものと思われます。
一方、庶民の側も特別な人がいてはならない風潮があり、国家体制上の生まれながらに特別な人たちはいてはならないのが民主主義(デモクラシー)であるということです。民主主義国家では、全ての人は平等でなくてはいけないというわけです。
これは、国家体制から全ての個人や法人は平等の取り扱いを受けることであり、「法の下の平等」とされています。しかし、人は現実の世界では平等ではなく、姿形や能力、貧富の差などもあり現実には平等ではないことは明らかです。
ところが、生まれながらに天皇家(皇室)だけは「特別な人たち」ということにし、そのために国家体制として憲法を制定したわけです。実際に、学校では「民主主義では全ての人は平等」と教えられています。
しかし、なぜ天皇家という特別な人たちがいるのかについては正しく答えられる教師がいないのが現状です。実際に、教師たちに質問しても誰もこの疑問に答えることはできないはずです。この疑問は中学生にもなれば普通に持つようになります。
親たちも、このような質問には答えずに、昔からそういう風になっているとして、あまり口にせず、タブー化しているものと私は思っています。そもそも日本の民主主義(デモクラシー)は8割ほどがアメリカン・デモクラシーであるわけで、政治的な話でしかないことを知る必要があります。
だからこそ、日本の国家体制は外側が王国(憲法)であり、内側が民主政治体制(国会)として認識しているものと私は考えているわけです。当然、日本国民が主権者であるという考えは、間違いであるとも言えます。
「日本は国民主権国家」であると政治学者や憲法学者たちは解釈していますが、憲法には「国民主権」について3か所しか書かれておらず、実際には国民の代表者である政治家が主権者であることは誰の目にも明らかです。
だから、憲法で定める「国権の最高機関は国会」のように、選挙で選ばれた国会議員という集団が主権を持ってしまっているわけです。そして、総理大臣が選ぶ内閣は主権の内の行政権、国家業務の推進の権限を与えられるようになります。
つまり、日本の意思は対外的には内閣で決定したものになり、総理大臣を含めて内閣に行政権が与えられることになります。政府というのは、国会という意味もありますが、内閣(政権)だけを指しているとも考えられます。
主権者とは、政治的には権力者のことで、国民主権となると全ての国民が同じ国民を支配することになり、論理的な矛盾が出てきてしまいます。だから、支配者は少数でなければならなく、国民はいつも支配されていることになるということです。
例えば、北朝鮮のような独裁の思想が残っている国では、これまで国民が1000万人ほど餓死しているのにもかかわらず、金一族の作り話によって統治されているわけで、一刻も早く金正恩政権を打倒することが求められています。つまり、金日成の血族が支配する国を世界が許しておいてはならないということです。
だから、今の日本は国家体制上、国民の代表者である国会議会という集団が主権者になるしかありません。なぜかと言えば、こう考えなければ、理論的に合わないというのが通常の考え方であるからです。
他方、アメリカは16世紀にイギリス王室を否定し、1776年に独立宣言し、その7年後にイギリス王室が独立の承認をした国です。当時、王室がいない共和国であるアメリカは、建国後に主権者についての激しい議論を行いました。
結局、初代アメリカ大統領のジョージ・ワシントンには主権はなく、主権者は上院議員ということで苦し紛れで決定されたのがアメリカン・デモクラシーの始まりです。今でもアメリカでは、戦争の開始の宣言などは上院議会の決議で決定されています。
宣戦布告というのは、歴史的には国王の権限となっていますが、王様がいない国では国民の代表者である国会議員が持っています。繰り返しますが、このように考えないと理論的に説明できないということです。
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